前回までのあらすじ:第二次世界大戦後、ケロッグ財団の補助金で、主要な大学で医療経営修士課程が設立され、修士課程の運営やカリキュラムを検討する医療経営学大学プログラム協会(Association of University Programs in Health Administration: AUPHA)が設立された。当時医療経営学修士課程の学生は、第二次世界大戦で活躍した軍隊の医務官などの退役軍人が多く、中には尼僧も勉強していた。
尼僧!と驚いてしまいますが、私が以前勤務していたワシントン州の病院には修道女たちがマネージメントチームに入っていました。今回は、ファイラーマン博士談をお休みして、尼僧、退役軍人の医務官(非医師)たちが病院経営者を務めるに至った背景を書いてみます。
●なぜ、アメリカの病院は、非医師の尼僧、軍人医務官が病院CEOになったのかは、アメリカでの病院の成り立ちが関係する。<詳しくは、著書の5章 アメリカの病院と医師の歴史を参照> ●
アメリカの医師たちは、開業医から始まった。開業医たちは、裕福な患者宅に出向いて手術や診療をして、治療費を(ドクターフィー)請求していた。 一般市民も含めて開業医にドクターフィーが支払えない人たちは、多くの場合教会が運営する救貧院(Almshouse)で手当てを受けていた。救貧院は、徐々に病人を受け入れる慈善医療施設へと発展していく。救貧院を運営する教会の牧師、修道院長たちは、救貧院を一般市民のために医療施設の整った医療施設にするために、募金活動を行い、医師に働きかけて病院の開設をめざした。
開業医たちも自分の患者の手術や治療のために医療機器の整った施設が必要になり、病院開設に協力し、病院を利用するようになった。アメリカの病院で見かける医師たちは、日本の勤務医(病院から給料を貰う)ではなく、病院外に自分の診療所を持ち病院と使用契約を交わして病院にやってくる開業医たちだ。開業医たちは、病院での手術も含めた技術手技料を「ドクターフィー」として患者や保険会社に請求し、病院は施設提供代として「ホスピタルフィー」を患者や保険会社に請求する。
蛇足になるが、このドクターフィーとホスピタルフィーは、今日アメリカの病院で手術を受けた場合、外科医のドクターフィ、麻酔医のドクターフィー、病理医のドクターフィなど各医師からの請求書と、施設費としてホスピタルフィーの請求書が送られてくる所以なのだ。
なぜ、アメリカの医師は病院の勤務医にならなかったのか?
理由は、アメリカの医師は開業医から始まり、ドクターフィーと呼ばれる各医師の裁断で治療費を設定して患者さんに請求して自分たちの報酬を守っていた。
アメリカに病院建設が進むにつれ、医師たちは、病院の勤務医になることで報酬の決定権が自分から病院に移ることを恐れた。そこでこれまで通り、ドクターフィーを守るために、初診再診や簡単な検査は自分のオフィスで行い、高度な検査や手術は、病院と施設使用借契約(Medical Privilege)を交わして、病院に出張して、手術や高度検査をして患者〈現在は患者と医療保険会社〉にドクターフィーを請求する制度を確立したのだ。
●次に、アメリカでの病院の成り立ちを簡単に説明したい。●
アメリカの「病院」は、救貧院(Almshouse)から始まった。一般市民も含めて開業医にドクターフィーが支払えない人たちは、救貧院(Almshouse)で手当てを受けていた。しかし、救貧院の衛生状態は最悪で(当時の絵を見るとネズミが這いずり回っている)とても適切な治療を受けるレベルではなかった。そこで、アメリカで一般市民(general public)たちが治療を受けられる場所として、一般市民向け(General public)の医療施設としての病院が開院した。その例が、ペンシルバニア病院(1756年)、ニューヨーク病院(1791年)、マサチューセッツ総合病院(1821年)だ。
このように、アメリカの病院は多くの場合、教会の救貧院から始まったので、尼僧が救貧院から病院運営に関係していることがわかる。
私自身、ワシントン州で勤務した病院は、カソリック系の病院であり、経営陣のメンバーに2人の尼(シスター)さん幹部がいた。かつては、病院経営者(CEO)も尼さんだったそうだが、時代の流れで病院経営の専門家をCEOとして雇うことにしたそうだ。
今でも、アメリカの大手医療統合ネットワーク(ヘルスシステム)は、教会関係が多いことに気づく。たとえば、○○カソリック・ヘルスシステム、○○バプテスト・ヘルスシステム、○○メソディスト・ヘルスシステム、・・セント(聖)ジョン/メアリー・ヘルスシステム、○○シスターズ・ヘルスシステム等がその例だ。
これで前回のファイラーマン博士談にある尼僧が病院経営幹部にかかわった理由がおわかり頂けたと思う。第二次世界大戦後は、教会に関係しない病院建設が進んだことや教会関係の病院も病院経営のプロを外部に求め、そこに退役軍人の医務官が、病院経営に関わるきっかけになったのだ。
●メイヨクリニックのメイヨ兄弟とセントメリー病院の関係構築が参考になるので書いてみたい。●
時代は1880年代に遡る。当時、メイヨ兄弟は、後にセントメリー病院が開院するミネソタ州のローチェスターで開業していた。
フランシス修道院のアルフレッド院長は、ローチェスター市民のために病院開院の必要性を感じ、ウイリアム・メイヨ医師に相談した。彼は、病院開設に興味はなく、「病院は当時不潔で汚い所」とされていたので病院で手術や検査をすることは範疇になかった。
1883年にローチェスター地域に竜巻が発生し、多くの住民が被害を受けた。その時、先のフランシス修道院は、怪我した住民のために教会施設を提供し修道女たちが献身的な看護をしていた。そこで、病院が必要だと痛切したアルフレッド院長は、病院建設に必要な資金集めをするので再度ウイリアム・メイヨ医師に、病院建設に協力してほしいと依頼した。
修道女たちは、セントメアリー病院建設のために自分たちの食事や衣服を節約して資金集めをしていた。ウイリアム・メイヨ医師はこの修道女たちを見て心を動かされて、病院開設協力を了解し、1889年にセントメリー病院が開院した。セントメリー病院は、フランシス修道院の修道女たちで運営されていた。これまでの経緯を考えると、修道女が病院の経営と運営に携わるのは自然の成り行きといえよう。ちなみに当時、ウイリアム・メイヨ医師のように権威ある医師が病院でオペや治療することは、画期的なことだったそうだ。
さて、病院開院の前年にチャーリー・メイヨ医師は、医学部卒業後、ヨーロッパの病院を訪問し、手術の消毒法について学んだ。フランスの病院の手術は、手術室消毒のために消毒剤が使われていた。ドイツでは、外科医が手術の前に指とつめのすみずみまで手洗いして、煮沸消毒した布手袋を着用していた。手術ティームの医師や看護師たちは、長靴を履き、床には消毒薬で浸され、壁は消毒薬で拭かれていた。この消毒法は、セントメリー病院の手術室と外科スタッフにも生かされたのだろう。
メイヨクリニックの成功にはフランシス修道院長のアレフレッド院長が、あきらめずにメイヨ兄弟に病院開設への協力を説得したことが功を奏した。
●マサチューセッツ総合病院の例●
マサチューセッツ総合病院(今、マス総合病院と略)も一般市民(ジェネラル・パブリック)のために設立された病院だ。アメリカ人は、マス・ジェネラルと呼んでいるが、このジェネラルは、一般市民のという意味なので、マス総合病院よりマス一般市民病院⇒マス市民病院のほうがしっくりいく気がする。
このマス総合病院も、もともとボストンの救貧院を運営するバーレット牧師(Rev. John Bartlett)が、救貧院を脱してボストンの一般市民が安心して掛かれる最新鋭の医療機関設立を目指して、募金活動と権威ある医師たちに呼びかけして開設された病院だ。
現在のメイヨクリニックのセントメリー病院やマサチューセッツ総合病院などアメリカの病院は、様々な人の絶え間ない努力で現在のような世界最新鋭の病院になったのだ。
まさに、リンカーン大統領の名言「意思あるところに道は開ける」とでもいえようか。
~次回に続く~
この連載の詳細は、著書をご参照ください。)
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